震える手から扇がこぼれ落ちたことにも気づかぬ様 |
震える手から扇がこぼれ落ちたことにも気づかぬ様子で、唇を震わせ、空気を欲しがる魚のように開け閉めしたあげく、ようやく悲鳴のような声を絞り出した。
「その装束は、その紋は――」
*
女房の梅ノ井が言葉を失うのも無理はない。
気がつけば忠信も呆けたように口を開けていた。
黒橡色の地に浅紫色の藤の下り紋を透かしのように織り込んだその苞は、まごうことなく主人の家の物だった。
朝廷で、この色の装束を着ることが許されているのは一握りの公家だけだ。
しかも、そこに織り込まれた紋は、この世の最高実力者を出し続けている摂関家のものである。その装束を、こともあろうに、鬼の子が身につけているのだ。
むろん新しく仕立てたものではない。
この家には嫡男がいないからだ。
つまり、この邸の主人の装束を、鬼の子の体に合わせて仕立て直したということだ。
そのようなことを思いつき、なおかつ実行できる者は、たった一人しかいない。EGT 功效
「姫様、戯れが過ぎますぞ」
名指しされた姫は、のんびりとしたもので、目もとを薄桃色にそめ、瞳を潤ませ、イダテンの姿をうっとりと眺めている。
「思ったとおりです。まるで神代に迷い込んだような……」
扇を口元に、小首をかしげるように忠信に同意を求めた。
「そのように思いませんか、忠信」
ため息をこらえることができなかった。
いつもであれば、じいと呼ぶところだ。
何か含みがあるに違いない。
「……また、そのように、のんきなことを。阿岐権守様に知れましたら、どのようなお叱りを受けることか」
「使わぬものは手放して、誰かの役に立つほうが良いではありませんか」
姫は、優雅に微笑みながら涼やかな声で答えた。
――胆が冷えた。
間違いない。
これは姫にとって、戯れなどではない。
姫は、阿岐権守であり父である男の都への未練に気がついている。
その上で、官位の象徴である装束を手元に置かぬほうがよいと言っているのだ。自分は、この地にとどまりたいという宣言でもあるのだろう。
さらに、忠信のことを普段とは違う呼び方をすることで皆に印象付けたのだ。
忠信にとって、どこに出しても恥ずかしくない自慢の姫だった。
見目形は言うにおよばず、書や歌、楽の才に加え、男の学問である漢文の素養もある。
そして、その才を鼻にかけることもなく、慎み深く清らかに育ってくださった。
そう思っていた。
――が、やはり、姫もおなごなのだ。
認めたくはないが、年とともに強かになっていく。「わたしの名は『ささらが』といいます」
「姫君!」
梅ノ井があわてて制止した。
忠信も、おもわず顔をしかめた。
「姫君ほどの高貴なお方が、下衆に直接話しかけるなど、あってはならぬことです。しかも、鬼の前でおん名を口にするなど! ……そもそも姫君は御簾越しに対面すべきもの。せめて、扇でお顔を!」
梅ノ井の小言は際限が無い。
扇こそ使っているものの、姫に合わせて几帳も置かず対面していることにも納得がいかないのだ。
さらには、忠信が「姫君」ではなく「姫様」と呼び、周囲がそれに倣っていることにも。
姫がそれを許していることにも。
「よいではありませんか、梅ノ井。これまでもこうしてきたのです」
姫は、臣下の小言など気にするそぶりも見せなかった。
忠信が、どう思っていたところで、まさに生まれながらの姫君だった。
*
姫の取り巻きがあわてている。だが、姫は気にする様子もなく続けた。
「あなたの名は、なんというのです?」
「おれの名を聞いてなんになる」
口をついて出た言葉は礼ではなかった。
見ればわかるだろうという思いもあった。
このような場所に、のこのこ出かけてきた自分にも腹が立った。梅ノ井と呼ばれたおなごが、いつ倒れてもおかしくない顔色で突っかかってきた。
「何です、その物言いは! 礼儀を知らぬにもほどがありましょう。姫君は、畏れ多くも……」
梅ノ井が言葉をつまらせた。
姫が、扇を梅ノ井の前、斜め下にそっと差し出したからだ。
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