逮捕されること、先行きへの不安。 |
逮捕されること、先行きへの不安。
身体を通してそれを分かち合っても、良いのではないだろうか。
ひゐろの心は、揺れていた。
二日後には、元旦になる。
ただ年が明けてしまったら、下宿先に伺うことなどない気がしていた。Botox瘦面
しかも、その間に斎藤が捕まってしまう可能性もあるだろう。
行くなら今日だ、と。
ひゐろは取るものもとりあえず、の自宅を出て市電に乗った。
帰省した人が多いのか、市電に乗る人は非常に少なかった。
斎藤の下宿先は、根津神社北門の坂の近くにあった。坂の並びにいくつか大きな家屋が並んでおり、ほぼ真ん中に位置するところにあった。
家屋の裏手にはの木が数本あるが、みな落葉しており、枝打ちも終わっていた。
「佐々木」という表札の側にはすでに二つの門松が飾られ、国旗も立てられていた。
ここだわとひゐろは思い、門戸を開けて中へ入った。
「……ごめんください!」
大きな声で、中の人を呼んだ。
するとそこから、ひゐろと同じ年頃だと思しき女中が出てきた。
割烹着を着て、頰被りをしていたが、非常にきれいな娘であった。
「こちらの下宿に、斎藤英太郎さんという方がいらっしゃいませんか?」
「失礼ですが、どなた様でしょうか」
年末の忙しい時期に、何の用事だという面持ちで女中はそう答えた。
「……斎藤英太郎さんの知り合いです。斎藤さんにお逢いすれば、わかるはずですから」
女中はひゐろをし、こう言った。
「そうですか。それでは、お通しします。こちらへどうぞ」
玄関から、離れを通される。離れの一棟が、下宿のようだ。
離れ玄関の先には長い廊下があり、廊下の右側に三つの引き戸がついていた。
一番奥の部屋が、斎藤の部屋のようだ。「失礼いたします。斎藤さんにお客様がおいでです」
「……」
「斎藤さん、お客様です」
何の返答もなかった。
「……失礼します」
女中が引き戸を開けると、そこはもぬけの殻となっていた。……斎藤さんがいない
ひゐろは、に取られてしまった。
「今朝方はいらっしゃったのですが、一体どうしたのでしょう?」
部屋の奥には、古びた正座机があった。そこに、一通の封書が置いてある。
―――“ひゐろ様”
「私宛の手紙のようです。こちらを読んで、おいたします」
ひゐろは即座にそれを開封し、を広げて読んだ。
“またお店に伺います。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。よろしくお願いします 斎藤”
例の角ばった文字がある。か三行の簡素な手紙であった。
この手紙は、どのように解釈すればいいのだろうか。
文字通りに受け取ってもいいのだろうか。
まさか警察に出頭してしまい、もう何年も会えない。
だからこその「いつかまたお店に伺います」だとか……。
ひゐろは、その意図が全く理解できなかった。
しばらくすると、その文面が腹立たしくも思えてきた。
下宿先を伝えたくせに、私を待たずに去っていくとはどういうなのか。
心も身体もすべてを受け入れるという覚悟で出向いたのに、なぜ私を惑わせるのか、と。
ひゐろはすぐに手紙をたたみ、封筒に入れた。
「それでは、失礼します」
女中に頭を下げ、斎藤の下宿先を去った。市電に揺られながら、ひゐろは今年一年を振り返った。
曲がりなりにも職業婦人となり、オートガールという職を得た。
やがて飯田孟という男を愛し、不慮の事故で彼を失ってしまう。
そして初めて自分の力で住まいを得、暮らしている……。
しばらく、市電の曇った車窓を見つめていた。
すると、母の民子のことが浮かんできた。
―――「住まいが決まったら、帰ってきなさい」
母にはそう言われたが、いまだに本郷の実家には一度も帰っていない。
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